contribution calendarが途切れそうなので何か書く。

なんで途切れかけているかというと、センター試験があったからだ。 さすがに当日もコンピュータをいじっているのは見ている周りまで心配になってくるだろうし、あらかじめしておいたファビコンの設定作業をpull requestの作成とmasterブランチへのコミットの2日分に分けてcontributionをつなぐことにした。 別に無理にsteakを伸ばす必要はないのだが、なんとなく記録に残るものがあると僅かでも何か前進したような気分になるので続けている。 基本的に普通に生活していると成功体験があまりない。 成功体験がないと自己評価が落ちてゆく。 内容がなんであれ作業がcontributionとして認められるというのは小さな成功体験である。 contribution calendarが繋がっているというのは、自分の精神が安定しているということも表している。

なんだか最近なんども同じことを書いてしまっているような気がするが、相手の言ったことを悪く解釈して勝手に怒り出すような人をよく見かける。 たとえば、小泉進次郎衆院議員の

悲観的な考えしか持てない人口1億2千万人の国より、将来を楽観し自信に満ちた人口6千万人の国の方が、成功事例を生み出せるのではないか

という発言を、現在の国民のうち悲観論者の6千万人を虐殺して、楽観的な人だけの国を作ろうというような意味だと捉えて、現代版ポルポトだとか、優生思想だとか、化けの皮が剥がれただとか言う人がいた。 しかしよく考えてほしい。他人からの評価が第一の議員という仕事をしている人が、明らかに今の国民に嫌われるようなことをわざわざ言うだろうか。 好意的に解釈すれば、無理に少子化による人口減を食い止めようとして国民が不幸になるよりは、人口が減って行くことを前提にした仕組みを作ったほうがいいのではないか、という意味にも取れる。 こういう意味で言ったのなら別にめちゃくちゃな主張はしていないように思えるし、この解釈の方が自然ではないだろうか。

「送信するものに関しては厳密に、受信するものに関しては寛容に」とは通信における設計原則である。 これを人間の会話にも応用できるのではないだろうか。 つまり、発言をする際はできるだけ誤解のないように正確さを心がけ、それを受け取る際は相手が意図を伝え切れていなかったり、途中で切り貼りされている可能性を考えてできるだけ好意的に解釈するのだ。 これを守れば、インターネット上の会話ですれ違いが生じることはかなり減るのではないだろうか。

今のインターネットリテラシーの授業は犯罪に巻き込まれないようにしたり、犯罪自慢を始めないようにするための最低限のマナーだけを教えているが、さらに進んでこれをインターネットリテラシーの授業などで教えるようになってほしいものだ。